自分が食べられなくなったら

最近死に方について考える。うちで猫を飼っているのだが心臓が悪い。以前は非常にすばしっこくて妻と二人で追い詰めないとダメで、私一人が捕まえるのは絶望的なほどだった。薬をやろうとしたり、病院に連れて行こうとするとそれを察してさっと隠れてしまい、捕まえるのに苦労した。


それが今ではちょっと逃げると苦しくなるようでやすやすとつかまってしまう。それが病気の深刻さを裏付けていて切ない。症状は確実に進行している。今朝息苦しそうな声で目が覚めた。少しでも長く生きてほしいが苦しむ時間は短いほうがいいと願う。


今年の9月で母の5回忌を迎える。母は肺繊維症という難病だった。肺が弱って酸素が入らなくなるのでとても苦しんだ。私は実家から遠く離れていたので苦しんでいるときの様子を実際にはほとんど見ていない。父や妹の話に聞いているだけだ。愛するものが苦しんでいるときに楽にしてあげたい、でも何も出来ない切なさ、つらさは言葉に出来ない。


んで自分のことを考える。食べられなくなったらっていうのはいろんな段階が考えられるが敢えてぼかしておく。生物として自分で食べることができないのはもう生きる力が無いのだろうから無理に延命措置をすることは無い。神や仏や運命をどこまで信じているかは難しいが、自然のバランスって言うものを感じてる。僕は死すべき時に死ぬだろうから


「延命措置なんかしなくていいから」っていうと妻は複雑な顔をする。「逆の立場の時救ってくれないの?」って。そういう意味ではないのに。ただ苦しむ時間が延びるだけの時きっと悩むと思うのだよ。だから自分の場合はさっさと逝かせてくれっていっているだけなんだけど。年齢的にまだお互いの死がイメージできないのだろうな。